院長の半生

院長プロフィール

経歴
昭和34年熊本県八代市生まれ
その後、人吉、鹿児島へと移り住む
昭和53年鹿児島県立鶴丸高等学校卒業
昭和59年福岡県立九州歯科大学卒業
その後勤務医、分院長を勤める
平成4年上益城郡に、ひがし歯科医院開院
平成7年医療法人となる
平成22年現在スタッフ20名
平成28年ドクター3人体制となる
訪問診療開始

所属学会など
No.1 デンティストクラブスタードクター
日本口腔インプラント学会会員
日本矯正歯科学会会員
熊本矯正歯科研究会会員


1. 誕生から高校まで

 私、東正也は昭和34年12月10日熊本県八代市に生まれました。父はNTT(その当時は電々公社)職員でした。母は専業主婦でした。3歳上に兄が一人います。子供の頃は、ひょうきんだけど礼儀正しくどちらかというと内気な子供だったと思います。小学1年の頃はクラスで1人泳げず、1〜4年までスイミングクラブに通いました。母の自転車の後ろに乗ってプールに通った記憶がおぼろげにあります。

 小学校5年の時に父の転勤に伴い、熊本県人吉市に引っ越しました。初の転校です。この頃からボーッとしていた頭が少しクリアになってきたように思います。5年生は水泳部でした。6年生から兄の影響で柔道部に入りました。自転車屋さんの笹田先生に柔の道を教わりました。
その頃流行っていたフォークソングや歌謡曲を聴くと、人吉の風景が今でもほのぼのと思い出されます。

 父の転勤に伴い、中2の時に鹿児島市吉野町に引っ越しました。NTTの社宅の2DKの古いアパートです。中学校時代は勉強もでき(11クラス、550名中たいてい3番)、スポーツもでき(柔道部主将)少々もてたような気もします。勉強とスポーツ両方できる生徒として中学校の代表に1人だけ選出されたりもしました。人生戻れるなら戻りたい、たぶん人生の黄金期ですね。その頃は大学は東大か京大か九大に行くと思っていました。

 ラ・サールは学費が7倍(当時月21,000円)ということもあり、鶴丸高校へ入学しました。ここでは残念ながら勉強した思い出しかありません。3年後、7倍の競争率の中、福岡県立九州歯科大学に現役で入学しました。その当時は、なんとなく会社員とかになるのは想像できませんでしたし、企業は「金儲けが目的」みたいな間違った観念を持っていました。親から浪人は許さないと言われていたこともあり、現役でまちがいなく合格できる国公立の医学部か歯科部ということで福岡県立九州歯科大学にしました。もちろん人の為に働こうという意欲もありました。


2. 大学時代

 大学時代は親元を離れ、青春時代そのものでした。九州歯科大学は部活が盛んで、私は水泳部に入りました。当時、胸は逆三角形で、腹筋は割れ、今とは大違いです。
専門種目が一番選手層が薄い背泳ということもあり、たいていはデンタル(全日本歯科学生総合体育大会)では表彰台に立っていました。勉強は大変だったけど今となっては夢のような6年間でした。国家試験にも無事合格し、そして熊本の開業医に勤めることになりました。


3. 熊本勤務医時代

 昭和59年、熊本市の歯科医院に勤務し始めました。他の卒業生と違い、私は歯科医師国家試験の前にたっぷり実技の本を読んでいたので、臨床の知識には困らず、3ヶ月で教えてもらうことはなくなりました。しかし、慣れてくるといくつもの「?」が日々診療中に浮かぶようになりました。「もっとこうしてあげればいいのに」「もっとこうしてあげたいけれど」

 しかし、自分には実際やったことはないし、医院の方針ではやらないことになってるし、どうしようもありませんでした。
不甲斐ない、情けない毎日でした。歯科医として患者さんにベストを尽くしたい!でも、それをしてあげるための経験もないし、してあげることもできない。
不甲斐なくて、情けなくて、辛くて、惨めで-。その頃は流行していた歌、渡辺美里の「マイレボルーション」を聴きながら、泣いていました。大人が変ですね。でも当時はそうでした。

 そういう想いもあり、また、当時時間はあったので、歯科医師会の学術ビデオ何百本を見て勉強しました。笑っちゃうことに私の学術の恩師はビデオです。
(その後20年して、県歯科医師会会長の堤先生から、「この先生は歯科医師会の学術ビデオ貸出し歴代1位の先生です」と他の先生に紹介されたりもしました。たった2年間で見た本数が県歯科医師会で歴代1位とは-。)

とにかく辛い2年間でした。


4. 沖縄勤務医時代

 昭和61年、沖縄の山川歯科医院に勤務することになりました。その当時の平田秀一院長に2年間の色んな想いを伝えると、先生はおっしゃってくれました。
「わかりました。何でもやって下さい。責任は全部私が取ります!」
私は泣きました。嬉しくて嬉しくて泣きました。人生の大恩人です。

 そこの医院には当時歯科医が4人いましたが、バリバリ働き翌月から仕事量はトップとなりました。本当にやりたい良心的な事をやることができるようになったのです。水を得た魚です。3年間の分院長も含め、計7年お世話になりました。

 素晴らしい7年間でした。山川歯科を去る時、山川理事長に聞いてみました。「大変お世話になりました。ところで、このご恩をどうやってお返ししたらいいのでしょう?」理事長はこうおっしゃいました。
「恩というものは受けた人に返さなくてもいいんですよ。その恩は別の人に返して下さい。」
この方も大恩人です。
平成24年4月28日に惜しくも亡くなられました。人の為に生きた人でした。

 歯科では数をたくさん見る事を手が荒れるとかいって低くみる傾向がありますが、私は1日60名〜80名を毎日夜9時まで真面目に診てきました。
その人の事を想い、その人の人生を考え、その瞬間何をし、何をするべきかを瞬時に判断する能力は、山川歯科での7年間で養われた特殊な能力だと思っています。


5. 開業して

 平成4年1月、熊本県上益城郡に「ひがし歯科医院」を開業しました。ホワイト歯科、コスモ歯科に続き、県下3番目の夜9時まで-、いわゆる夜間診療をやる歯科医院です。当然、患者さんは多く、7台のユニットは空くことなく、休み時間をはさみ朝から夜まで診療は順調に流れます。忙しいけど充実した日々でした。

 しかし、当時は官業癒着の時代であり夜間診療という新サービスを提供しようとしたひがし歯科は不当な強い圧力を監督官庁より受けました。相手は許認可権全てを持っている厚生省。こちらにあるのは「歯科医療は、患者のためにある、患者のことを考えて治療すべき」という信念だけです。圧力を受けるのが怖いので7年経っても8年経っても、夜間診療をやる歯科医院は3医院から1医院も増えません。
またハートのない同業者からは「金儲けのため-」と言われたり、「歯科医の品位を下げる」と言われたり-。

 でも、自分の中の「患者のための」というホスピタリティは消えることはなく、ますます強い信念となりました。
「私がやるしかない!患者さんの一番の味方になるんだ!」と。
なお、「夜間診療」に関しては、公正取引委員会などの働きで、不当な扱いができなくなり後に熊本県では解禁となりました。3医院が勝ったのです。


6. そして近年

 平成24年4月28日。1人のスタッフの具合が悪くなり、救急車で運ばれました。脳梗塞でした。そして1時間後、今度は沖縄の山川理事長が亡くなられたと連絡が入りました。

 お通夜に行くと、そこには28年前に一緒に働いていたスタッフがたくさんいました。歯科医院ではそんなに長く勤めることはありえない事です。「どうしてそんなに続いてきたの?」と聞いてしまいました。「山川理事長を尊敬していたからです。」山川さんは、人の為に生きた人です。そして尊敬され、人からこんなにも支えられてきました。自分はどうだったのかな?患者さんのためっていいながら、スタッフや家族に大きな負担をかけてきてしまってきたよなぁ。

 救急車で運ばれたスタッフは、耳の後ろで血管が切れる音がしたそうで、見る間に手足が冷たくなっていきました。ひょっとしたらあのまま最悪の結果になっていたかもしれない。私の夜間診療に対するこだわりが彼女を追い込む1つの原因になったのは間違いないのです。その他不思議な偶然がいくつも重なりました。

 人の幸福のためと思ってしてきたことが人を不幸にしていたのかもしれません。
「もうやめよう。夜間診療を」沖縄時代を含めると27年間やってきました。
「熊本でも20年間やってきたじゃないか、そろそろ楽にしていいよ」って神様が教えてくれたのだと思いました。
今年平成24年10月より診療時間を朝9時診療から夜19時までにすることにします。夜間診療は、私たちの後に続く後輩達のふんばりに期待しています。

 今はやっと今までの色んな事に感謝できるようになりました。辛かったこと、情けなかったこと、怖かったこと、悔しかったこと、ありがたかったこと、嬉しかったこと、涙したこと。その一つ一つが、今の自分を作っています。
「患者さんの一番の味方になる」という、私の歯科医としての信念は、日本一ではないかと、正直思っています。
長文を読んで頂き、ありがとうございました。
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